人は、
戦争という個人ではどうにもならない状況に放り込まれたとき、
高尚な選択なんてできない。
その瞬間に残されている手段で、
生き延びるために反応する。
それだけだ。
『赤い天使』を観ていて、
登場人物たちの行動を
「正しい」「間違っている」で切り分ける気には、どうしてもなれなかった。
これは堕落の話ではない。
極限状況における、生存の話だった。
この記事の目次
人は、人の熱を求めてしまう
戦況は不利。
コレラは蔓延している。
明日、自分が生きている保証はない。
そんな状況で、人は人に惹かれる。
それは恋愛感情というより、
生きている温度を確かめる行為に近い。
吊り橋効果、と言ってしまえば説明はつく。
でも、あの場面にあったのは
理屈ではなく、切実さだった。
極限状態では、
誰かに触れたい、誰かとつながっていたいという欲求は、
異常ではなく自然な反応になる。
ふざけることも、生き延びる技術だった
尊敬している軍医と、ふざけ合う場面がある。
一見すると、不謹慎にも見える。
けれど、
あの軽さがなければ、
彼女たちは正気を保てなかったのだと思う。
笑うこと。
冗談を言うこと。
一瞬だけ、戦争を忘れること。
それらは逃避ではなく、
精神を壊さないための処置だった。
人を殺すために、人を治すという矛盾
軍医は、
モルヒネを打ちながら手術を続ける。
人を治す行為が、
結果として「人を殺す戦争」を支えている。
この矛盾を、
シラフのまま受け止め続けることなど、できるだろうか。
狂うしかなかったのだと思う。
感覚を鈍らせるか、
何かに依存するか、
壊れるか。
それは個人の弱さではない。
状況が人を狂わせていた。
「正気でいろ」という要求の暴力
『赤い天使』を観ていて、
一番残酷だと感じたのは、
「正気でいること」を当然の前提にしてしまう視線だった。
あの環境で、
倫理的で、冷静で、感情を乱さずにいることを求めるのは、
それ自体が暴力に近い。
狂わなければ、生き延びられなかった人たちがいた。
ただ、それだけの話なのだと思う。
平和な場所から、裁かないために
私たちは、
平和な場所からこの映画を観ている。
だからこそ、
登場人物たちの行動を
善悪や正しさで裁くべきではない気がした。
「もし自分がそこにいたら」
そう想像することすら、簡単ではない。
ただ、
人は極限に置かれたとき、
こうやって生きようとすることがある。
その事実を、
静かに受け取るための映画だった。
観られる場所について(視聴メモ)
この作品は、
**Amazon Prime Videoの「KADOKAWAチャンネル」**で視聴できる。
KADOKAWAチャンネルは、
プライム会員が月額396円(税込)を追加することで利用できる有料チャンネル。
(※一部、無料体験期間あり)
邦画では
「犬神家」シリーズ、ガメラ作品、
洋画ではチャップリン作品など、
少し癖があって、でも残る映画が多いのが特徴だ。
派手な話題作より、
「ちゃんと受け止める覚悟が必要な映画」を観たい時には、
かなり相性がいい。
『赤い天使』も、
元気なときにおすすめする映画ではない。
でも、
何かが引っかかっている夜や、
簡単な言葉に納得できないときには、
そっと再生してしまう一本だと思う。















