
漫画『血の轍』(押見修造)は、読む者の心を静かに蝕む作品だ。
母と子の関係を通して、愛という名の暴力、依存、支配の構造を浮き彫りにする。
この作品を「毒親問題」という切り口から読み解いたのが、漫画家・山田玲司さんによるトークだ。
この記事の目次
第一章 押見修造という作家の本質
『惡の華』で思春期の心の闇を描いた押見修造。
可愛い絵柄と対照的に、極端に人間の醜さを描くスタイルが特徴的だ。
山田玲司さんは彼を「パンツ脱ぎすぎ押見修造」と評する。
すべてを隠さず、恥も葛藤もそのまま描く“暴露型”の作家だという。
彼の作品には、性・恥・罪悪感という、日本人の深層心理に根ざしたテーマが通底している。
「可愛い絵でえぐい内容」を描くという伝統の上に立ち、押見修造は“自意識とリビドーの地獄”を真正面から見つめている。
第二章 “毒親”とは何か——選択肢のない自由
山田玲司さんが語る『血の轍』の象徴的なシーン。
それは、母・静子が息子・静一に問いかける朝の一言だ。
「肉まんにする? あんまんにする?」
一見すると優しい母親の問いかけだが、実はそこに「自由の不在」がある。
母は“選ばせている”つもりでも、与えられた選択肢はわずか二つ。
和食も洋食もなく、ただ肉まんかあんまんだけ。
これは日本社会に広がる「毒親構造」の縮図だ。
表面的には愛と世話に満ちていながら、
実際には子どもの思考と選択の自由を奪っていく。
「あなたのため」という言葉の裏にあるのは、
「あなたを私の思うように生きさせたい」という支配。
押見修造はこの構造を、誇張せず、ただ淡々と描き出す。
第三章 母と子の共依存の地獄
『血の轍』は単なる“息子が支配される話”では終わらない。
物語の核にあるのは、共依存という静かな地獄だ。
母は、息子を守ることでしか自分を保てず、
息子は、母に従うことでしか愛を感じられない。
「母もまた、死にたかった。けれど、あなたがいるから死ねない。」
その瞬間、読者は気づく。
母もまた「愛」という鎖に縛られていることを。
支配も依存も、同じ痛みから生まれている——。
第四章 “日本の父と母”の終わらない物語
山田玲司さんは、『血の轍』を日本の文化的系譜の中に位置づける。
「日本の男たちは、いまだ母親を引きずっている。」
手塚治虫、松本零士、宮崎駿、富野由悠季——
戦後日本の多くの物語が“母の喪失”をテーマとしてきた。
母に愛されなかった息子。
母に見捨てられた少年。
そのトラウマを抱えたまま大人になり、
父になりきれないまま次の世代を生む。
『血の轍』は、この日本的な心の連鎖に深く切り込む。
母と子、父と母——どこかが壊れている社会の鏡として。
第五章 母の視点——「あなたが生まれたから、私は死ねなくなった」
物語の後半では、視点が母・静子へと移る。
息子を支配する“恐ろしい母”が、やがて一人の“苦しむ人間”として描かれる。
「あなたが生まれたから、私は死ねなくなった。」
その言葉には、母自身の絶望が滲む。
静子は「母として生きること」に縛られ、
自分を消すことも許されないまま、息子にしがみついてしまう。
読者は気づく——
母もまた「毒親構造」の被害者なのだと。
第六章 名越康文先生の解釈——母と子の心の構造
精神科医・名越康文先生が『血の轍』を分析した
「漫画さんぽ」シリーズも非常に示唆的だ。
名越先生はこの作品を、
「母と子の分離不安」「共依存」「無意識の支配構造」から読み解く。
母の愛は、生まれた瞬間から子どもの命綱である。
しかし、それが切り離せないまま成長すると、
愛が“支配”に変わり、支配が“罪悪感”を生む。
押見修造は、この心理の深層を正確に描いている。
それゆえに読後感は重く、息苦しい。
だが同時に、「人間の心とは何か」という問いに真正面から向き合う作品でもある。
第七章 読むと、心が沈む——それでも読む価値がある
『血の轍』を読むと、誰もが少なからずダウナーな気分になる。
それは、物語があまりにもリアルだからだ。
しかし、読み終えたあとに他者の考察を読むと、
まったく異なる角度からこの物語が見えてくる。
ある人にとっては“母の救い”、
別の人にとっては“息子の覚醒”、
そして誰かにとっては“現代日本の縮図”として映る。
他者の解釈に触れることで、
自分の中に眠る「静子」や「静一」を発見することができる。
『血の轍』は、他人の物語であると同時に、自分の人生を見つめ直す鏡なのだ。
第八章 魂の殺人と、自己救済の物語として
『血の轍』は単なる「毒親」や「共依存」のドラマではない。
その本質は、“魂の殺人”と“再生”の物語だと思う。
母・静子によって心を支配され、
「生きる」という行為そのものを奪われていく少年・静一。
その過程は、まるで精神の死を描くように静かで、残酷だ。
しかし同時に——彼の周囲にいる他者たち、
特に、彼と母の関係に踏み込んでしまった女子の同級生の存在が、
ほんのわずかに“救い”の光を差し込ませているようにも見える。
彼女はこの物語の中で数少ない“外の世界”の象徴であり、
その関わりが、少年にとって微かな自己救済の入口になっている。
そして、事件の影に沈黙していた父の存在——
彼もまた、罪と贖いを抱えている。
この家族の中では誰もが被害者であり、同時に加害者でもある。
その複雑さこそが、この作品を文学的な高みに引き上げている。
第九章 文学としての『血の轍』
この作品を読むと、萩尾望都先生の『残酷な神が支配する』を思い出す。
あの物語もまた、少年が母の再婚相手による性的虐待によって心を壊し、
やがて“崩壊と救い”を描く長大な叙事詩だった。
押見修造の『血の轍』にも同じ構造がある。
無垢だった少年が壊れ、
“母”という絶対的な存在を通して人間の愛と罪を学び、
「無かった頃には戻れない」という現実の中で
“違う自分”として生き直していく。
傷は消えない。
だが、傷のまま歩くことが「生きる」ことなのだ。
『血の轍』は、母と子の物語であると同時に、
人がどうやって“壊れた自分”を抱えて再び立ち上がるかという、
自己救済の文学でもある。
結語
押見修造が描いたのは、「母と子」という最も身近で逃れられない関係の闇。
そこにあるのは、愛と呪い、赦しと罪のすべてだ。
読むのがつらい。けれど、読む価値がある。
それは、私たちが「どのように生き直すか」を考えるための鏡だから。













