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先日、DVや虐待、そして「責任」について考えさせられる動画を見た。

動画の中で印象的だったのは、被害者が

「私が悪かった」

と思わされてしまう構造についての話だった。

夫を怒らせたのは自分の責任。

親を怒らせたのは自分の責任。

上司を怒らせたのは自分の責任。

本来なら暴力を振るった人が負うべき責任が、なぜか被害を受けた側へ移動していく。

私はそこに、DVや虐待だけではない、社会全体に共通する問題を感じた。

この記事の目次

「しつけ」の名で行われる暴力

私が思い出したのは

2019年千葉・野田市小学4年生の栗原心愛さん虐待死事件

2018年東京・目黒区5歳の船戸結愛さん虐待死事件

報道によれば、どちらの事件も加害者の父親は

「しつけのつもりだった」と語ったという。

私はこの言葉に、暴力の恐ろしさが凝縮されているように思う。

暴力は必ずしも

「自分は悪いことをしている」

という意識で行われるわけではない。

むしろ、

「自分は正しい」

「相手のためだ」

「教えてやっている」

という正義感によって行われることがある。

だから暴力は厄介だ。

加害者本人が、自分を加害者だと思っていないことがあるからだ。


「夫を怒らせた私が悪い」

DV被害者の話を聞くと、

「私がもっとちゃんとしていれば」

という言葉が少なくない。

しかし、怒ることと暴力を振るうことは別の問題である。

どれほどストレスを抱えていても、どれほど追い詰められていても、人を殴っていい理由にはならない。

苦しさへの理解と、責任の所在は分けて考えなければならない。

私は、有名人であっても、権力者であっても、この原則は変わらないと思っている。


家族にも人間関係がある

私は最近、

「家族だから」

という言葉について考える。

家庭は「よそはよそ、うちはうち」とブラックボックス化しやすい。

でも、家族だからといって人間関係が消えるわけではない。

親子にも。

夫婦にも。

きょうだいにも。

人と人との関係がある。

だから私は、家庭の中にもアサーションやバウンダリーが必要だと思う。

「それは嫌だ」と言う権利。

「それはあなたの課題だ」と切り分ける権利。

近すぎる関係だからこそ、境界線が必要なのではないだろうか。


関係性はトレーニングできる

アサーションやバウンダリーという言葉を聞くと、特別な人のための心理学のように感じるかもしれない。

でも私はそうは思わない。

これは生きる技術だ。

私たちの多くは、学校で人間関係の作り方を学ばない。

家庭でも学べないことがある。

だから大人になってから練習すればいい。

自分の気持ちを伝えること。

相手の気持ちを尊重すること。

支配しないこと。

支配されないこと。

それはトレーニングできる。


私が注目しているのが、加害者変容プログラムを行うGADHA(ガドハ)の活動だ。

被害者を守ることは最優先である。

そのうえで、加害者が変わる可能性を諦めない。

人は間違う。

社会も間違う。

家族も間違う。

でも、その間違いを認めて学び直すことはできる。

関係性も変えることができる。

希望とは、「問題がないこと」ではない。

問題があっても、よりよい方向へ向かおうとする意思なのだと思う。


家族だから許されることはない。

暴力は暴力である。

そして、家族だからこそ人間関係がある。

アサーションも、バウンダリーも、対話も必要だ。

「よそはよそ、うちはうち」

で終わらせるのではなく、

家族の関係性そのものを見つめ直すこと。

それが、より安全で尊重しあえる社会への第一歩なのかもしれない。

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