SNSを開けば、毎日のように新しい情報が流れてくる。
政治、経済、健康、ジェンダー、国際情勢。
「これが真実だ」
「マスコミは嘘をついている」
「本当のことを知っているのは一部の人だけだ」
そんな言葉も珍しくない。
私自身、社会問題や政治について考えることが好きだ。気になる記事を読み、動画を見て、SNSで意見を発信することもある。
けれど時々、ふと思う。
私は本当に、自分の頭で考えられているのだろうか。
誰かの言葉に影響されていないだろうか。
自分では「考えているつもり」で、実は都合のいい情報だけを集めているのではないだろうか。
そんなことを考えながら読んだのが、映画監督・伊丹万作の『戦争責任者の問題』だった。
この記事の目次
「だまされていた」という言葉
この文章は1946年、敗戦直後に書かれたものだ。
戦争が終わり、多くの人が口にした。
「自分たちはだまされていた」
軍部に。
政府に。
新聞に。
しかし伊丹万作は、その言葉に違和感を抱く。
有名な一節がある。
「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。『だまされていた』と言って平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。」
強烈な言葉だ。
けれど私は、この文章を読んで「国民が愚かだった」という話だとは思わなかった。
むしろ逆だった。
伊丹万作が問いかけているのは、
「自分は無関係だったと言い切れるのか」
ということなのだと思う。
私たちは本当に変わったのだろうか
もちろん、現代の日本は戦時中とは違う。
インターネットがあり、SNSがあり、誰でも情報を発信できる。
昔より自由に意見を言える社会になった。
けれど一方で、情報の量は圧倒的に増えた。
自分の好きな情報だけを見ることもできる。
アルゴリズムは、自分が見たいものをどんどん見せてくる。
気づけば似た意見ばかりが集まり、
「みんなそう言っている」
という感覚になってしまうこともある。
私自身も例外ではない。
SNSで見かけた情報に納得したり、
誰かの解説に共感したり、
反対に「これは怪しい」と判断したりする。
けれど、その判断が本当に正しいのかは分からない。
もしかしたら私は、今この瞬間にも何かにだまされているのかもしれない。
そう考えると、伊丹万作の言葉は決して過去の話ではない。
「だまされた」で終わらせないために
私が特に印象に残ったのは、次の部分だった。
「『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。」
「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。」
「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。」
― 伊丹万作『戦争責任者の問題』
この文章を読んで、私は少しドキッとした。
なぜなら、この話は戦争の話だけではないからだ。
私たちは日常の中でも、
「テレビにだまされていた」
「SNSにだまされていた」
「政治家にだまされていた」
「専門家にだまされていた」
と言うことがある。
もちろん、誤った情報を流した側の責任は大きい。
けれど伊丹万作が問いかけているのは、その先だ。
なぜ私はそれを信じたのか。
なぜ疑わなかったのか。
なぜ都合よく受け入れてしまったのか。
そこに目を向けなければ、対象が変わるだけで同じことを繰り返してしまう。
「自分だけは大丈夫」が一番危ない
私はこの文章を読んでいて、
「自分だけはだまされない」
と思うことこそ危険なのではないかと感じた。
人は誰でも間違える。
感情に流されることもある。
自分にとって都合のいい情報を信じたくなることもある。
だからこそ必要なのは、
完璧に正しい人間になることではなく、
「自分も間違えるかもしれない」と思い続けること
なのだと思う。
情報をうのみにしない。
反対意見にも目を向ける。
一度立ち止まって考える。
簡単なことではないけれど、その積み重ねしかない。
Hopeではなく、Still Thinking
私は最近、「Hopepunk(ホープパンク)」という考え方に惹かれている。
絶望的な状況の中でも希望を捨てない。
誰かを切り捨てるのではなく、一緒に生き延びる道を探す。
そんな姿勢だ。
けれど希望を持つためには、まず考えることをやめない必要がある。
誰かの言葉をそのまま信じるのではなく、
自分で調べ、
自分で悩み、
自分で考える。
そして必要なら考えを修正する。
その繰り返しの先にしか、本当の意味での希望はないのかもしれない。
それでも、自分の頭で考えるために
私はこれからも間違えるだろう。
勘違いすることもあるだろう。
何かにだまされることだってあるかもしれない。
けれど、「だまされた」で終わらせたくはない。
なぜ信じたのか。
なぜそう考えたのか。
何を見落としていたのか。
振り返り、学び直し、また考える。
伊丹万作の『戦争責任者の問題』は、そんな姿勢を忘れないための文章として、今も読み継がれているのだと思う。
正しい答えを持つためではなく。
それでも、自分の頭で考えるために。
伊丹万作が求めたのは、誰かを吊し上げることではなかった。
「だまされた自分」を解剖し、分析し、少しずつ改造していくことだった。
80年後を生きる私も、その宿題をまだ終えられていない。
参考文献
- 戦争責任者の問題(伊丹万作)
- 青空文庫(全文公開)













