J-WAVEのラジオで、クリス・ペプラーさんが紹介していた曲が心に残っている。
歌詞を読んで、私にはこんな警告のように聞こえた。
目の前で誰かがひどい扱いを受けている。そのことに目を閉じていれば、自分には関係がないと思えるかもしれない。でも、その仕打ちはいつか自分にも向けられるかもしれないよ、と。
クリス・ペプラーさんも、見ないふりをしていると大変なことになるよ、という趣旨のことを話していた。少し語気を強めていたように、私には感じられた。
それだけ、伝えたいことだったのかもしれない。
この警告は、生活の中でも、職場でも、テレビや社会での人の扱われ方にも、そして戦争にもつながっていると思う。
誰かへの扱いは、その場所の当たり前になる
身近なところでは、誰かをからかう会話や、仲間外れにする空気がある。
自分が言われているわけではないから、笑って流す。場の雰囲気を悪くしたくないから、黙っている。
職場でも、ある人だけが理不尽に叱られたり、仕事を押しつけられたりしているのに、「自分には関係ない」と距離を取ってしまうことがある。
関わると、次は自分が標的になるかもしれない。生活のために仕事を失うわけにはいかない。簡単に声を上げられない事情もある。
それでも、誰かへの不当な扱いが許され続けると、その扱いが通用する場所になってしまう。
人が入れ替わったり、自分の立場が変わったりしたとき、今度は自分が同じ扱いを受けるかもしれない。
誰かが大切にされない場所では、自分が大切にされる保証もない。
「自分にも返ってくる」とは、見て見ぬふりをした人に天罰が下るということではなく、そうした扱いを許す環境の中に、自分も暮らしているということなのだと思う。
画面の向こうの人も、同じ社会に生きている
テレビやインターネットで、誰かが笑いものにされている。ある属性の人たちが、ひとまとめに悪者にされている。困っている人に対して、「自己責任だ」と突き放す言葉が向けられている。
画面越しだと、その人の生活や痛みが遠く感じられることがある。
けれど、その扱いを当然のものとして受け入れていけば、誰かを傷つけたり、切り捨てたりすることへの抵抗が薄れていくのではないだろうか。
今は自分がその対象ではなくても、病気になったり、仕事を失ったり、年齢を重ねたりして、立場が変わることはある。
困った人にどんな言葉を向ける社会なのか。そのことは、自分が困ったときに、どんな扱いを受けるのかにもつながっている。
そして、たとえ自分が一生その立場にならなかったとしても、誰かが傷つけられてよい理由にはならない。
戦争も「遠くの出来事」で済ませたくない
戦争のニュースを見ていると、あまりの苦しさに、画面を閉じたくなることがある。
遠くで起きていることだから。自分にできることはないから。毎日の暮らしで精いっぱいだから。
そう感じることはある。それでも、そこで傷ついているのは、生活をしていた人たちだ。
食事をして、働いて、家族や友人と話して、明日の予定を考えていた人たち。その暮らしが壊され、命が奪われている。
「安全のため」「国のため」「仕方がない犠牲」といった言葉を聞いたとき、その陰で誰が何を失っているのかを見失いたくない。
誰かの命や権利を軽く扱う理屈を認めてしまえば、その理屈が別の人に向けられたとき、私たちは何を根拠に止められるのだろう。
身近な理不尽と戦争では、規模も背景も違う。それでも、傷つけられている人を「自分とは関係のない人」として遠ざけてしまうことには、共通する怖さがあると思う。
目を閉じないこと、声を上げること
すべての出来事を追い続けることはできない。つらい映像から離れたり、情報を見る時間を減らしたりして、自分を守ることも必要だ。
休むことと、起きていることをなかったことにすることは違う。
目を閉じないというのは、苦しい映像を見続けることではなく、そこで生きている人がいることを忘れず、その人への扱いを問い続けることなのだと思う。
困っている人の話を聞く。事実を確かめる。「それはおかしい」と伝える。誰かの声を届ける。自分にできる形で意思を示す。
一人の声ですぐに何かが変わらなくても、声が重なれば、黙って受け入れるしかないと思っていた人の支えになるかもしれない。
私は、自分の番が来てから初めて「おかしい」と気づくのではなく、今、誰かに起きていることを、おかしいと言える人でありたい。
生活の中でも、職場でも、画面の向こうでも、遠くの国でも。
どうか、どうか。
目を閉じない人が増えますように。
声を上げる人が増えますように。














