高市政権──“悪魔合体”が壊す日本のバランス。感情の政治と熟考の政治、その差が国を分ける
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この記事の目次

序章:女性初の首相という「表層の希望」

日本で初めて、女性の首相が誕生した。
多くのメディアは「歴史的」「多様性の一歩」と報じている。
その言葉だけを聞けば、確かに明るい未来を感じるかもしれない。

だが、私はそのニュースに喜びよりも、不安を覚えた。

なぜならこの「女性初」という肩書の裏には、
“権力構造の継続”と“自己責任社会の強化” が隠れているように見えるからだ。


自民+維新の“改革”が意味するもの

自民党と日本維新の会が連立政権を発足。
高市早苗氏が初の女性首相として就任した。
連立合意文書では「憲法改正・経済構造改革・教育正常化」などが掲げられている。

一見すると「改革」や「刷新」といった言葉が並ぶが、
その実態は“弱者の排除”と“同調圧力の制度化”に他ならない。

高市氏は過去にこう発言している。

「国民がさもしい顔で貰えるものは貰おうとする」
「生活保護を恥と思わないのが問題」

これらの言葉に共通しているのは、「困っている人=努力が足りない人」という思想だ。
しかし現実には、病気・介護・事故・非正規労働など、
“努力ではどうにもならない要因”で苦しむ人が多い。

政治の役割とは、その「個人ではどうにもならない領域」にこそ手を差し伸べることではないのか。

それを“さもしい”と切って捨てるリーダーに、
果たして福祉国家の舵取りができるだろうか。


ワークライフバランスを捨てる国

政権発足直後、高市首相は「働くとは命を削ること」
「甘えをなくす」といった精神論を繰り返した。

“ワークライフバランスをなくす方針”を掲げる政治。
それは、私たちの生活と健康を犠牲にして経済効率を最優先する宣言に等しい。

日本社会は長時間労働・過労死・メンタル不調といった問題を何十年も抱えてきた。
そこに逆行するような「精神論」の復活は、
昭和の“根性主義”を国策として再現する危険な兆しだ。

“頑張ること”そのものを否定するつもりはない。
しかし「頑張れない人」を叩く社会に未来はない。


感情で動く政治、思考で動く政治

女性首相の誕生は象徴的ではあるが、
その言葉や振る舞いから感じるのは「人間的な未熟さ」だ。

国会答弁や質疑応答を見ていると、彼女は感情が表に出やすく、
相手の発言に即座に反応し、時に攻撃的な言葉を選んでしまう。
特に、公明党が連立離脱を表明した直後の会見では、
被害者意識をにじませながら感情的に語る姿が印象的だった。

人間らしいとも言える。だが“国家の舵取り”に必要なのは感情ではなく熟考だ。

対照的に、石破茂氏の答弁は常に落ち着いている。
ゆっくりとした口調で、言葉を選び、感情に流されない。
その一言一言の裏には、資料を読み、考え抜き、
議論を設計する「構築型の知性」がある。

言葉を急ぐ人は、思考を置き去りにする。
言葉を選ぶ人は、聞き手の知性を信じている。

石破氏が「国会図書館に通い詰める努力家」であることを思えば、
その姿勢は“政治家としての教養”の表れだろう。
一方の高市氏は、敵対者を“論破”しようとする傾向が強く、
議論の目的が「理解」ではなく「勝利」になっている。

政治とは、勝つことではなく、つなぐことだ。
その本質を忘れた政治家が増えている。


“悪魔合体”が意味する日本の行方

現在の連立構成を俯瞰すれば、それはまさに「悪魔合体」と言うほかない。
自民党の権威主義構造に、維新・参政・N国といった
ポピュリズム政党が結合し、“権力と衆愚のハイブリッド”が誕生している。

  • 維新:自己責任・小さな政府・市場万能主義
  • 参政党:反科学・陰謀論的世界観
  • N国:制度破壊を娯楽化するポピュリズム

共通しているのは、「敵を作り、叩くことで支持を得る」手法だ。
この構造は、民主主義の本質である“異なる意見の共存”を破壊する。

SNSの断片的な言葉を拾い上げ、敵味方を二分化し、
「正しい我々 vs 間違った彼ら」という構図を作り上げる。
それこそが、今の日本政治の最大の病理である。


教育にまで及ぶ“歴史の書き換え”

次期文部科学大臣とされる松本洋平氏は、
南京事件否定映画『The Truth About Nanking』の支持者である。
この作品は、A級戦犯を殉教者のように描き、
加害の歴史を「なかったこと」にしようとする内容だ。

歴史修正主義の蔓延は、教育の根幹を揺るがす。
子どもたちが事実を学ぶ場に「政治的信念」を持ち込むことは、
記憶の抹消にほかならない。

ドキュメンタリー映画『主戦場』が描いたのは、
まさに「記録を消そうとする力」との闘いだった。
いま、私たちはその再来を目の前で見ている。

そして、これは単なる“右傾化”の話ではない。
もっと本質的な問題だ。

私はこう思う。
今の日本に必要なのは、右も左も関係なく、
人権と歴史を尊重できる人々が手を取り合うことだ。

“デマや偽史を信じ、差別や憎悪を拡散する勢力”に対抗するために。

今、起きているのは「極右化」ではなく、
“ヘイト・デマ・差別・戦争礼賛”を混ぜ合わせた危険な政治の台頭だ。

「右」や「左」というラベルの問題ではなく、
人権・理性・史実を守るか、それを破壊するかの分岐点に、私たちは立っている。

真に保守的な思想とは、本来「歴史と伝統を尊重する姿勢」だ。
だが今の政権に見えるのは、伝統ではなく改ざん、
誇りではなく排除、そして保守でも革新でもない“憎悪の政治”である。


結章:強さの名で、優しさを切り捨てないで

政治は本来、「社会の中で声の小さい人を守る」ために存在する。
だが、今の日本では「強い者の理屈」が政治の中心にある。

「努力しない者は救わなくていい」
「負けるのは自己責任だ」

そんな思想が、政策という形で制度化されようとしている。

高市政権の“改革”は、見た目は正義だ。
だがその内側には、
「弱者を恥じる社会」への回帰が透けて見える。

私たちは、“強い国”よりも“優しい社会”を選ばなければならない。
政治とは、誰かを裁くことではなく、誰かを支えること。
その原点を取り戻すために、
いま声を上げることが、民主主義の最低限の責任だと思う。

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