“なんか変”は甘えじゃない。職場の違和感は生存センサー
このページにはアフィリエイトリンクが含まれます。
リンクを経由してご購入いただけると、サイト運営の大きな支えになります。いつもありがとうございます。

— 勅使川原真衣さん『組織の違和感』から考える、生き延びるための組織論 —

最近、静かに衝撃を受けた一冊がある。
組織の違和感。
著者は 勅使川原真衣 さん。

組織で働いたことがある人なら、きっと一度は感じたことがあるはずだ。

「なんか変だな」
「でも、うまく説明できない」

私たちは大人になるにつれて、その感覚を飲み込むことを覚える。

気にしすぎかもしれない。
自分が未熟なのかもしれない。
みんな我慢しているんだから。

でも、この本を読んで気づいた。
あの違和感は、弱さではない。

生き延びるためのセンサーなのかもしれない、と。

この記事では、本の内容をなぞるだけではなく、
私自身の現場での経験と重ねながら、

「職場で感じる違和感とは何なのか」
を整理してみたいと思う。


この記事の目次

職場の違和感には、いくつかの種類がある

本の中で語られている視点を、私なりに咀嚼すると、
職場の違和感は大きく4つに分けられるように思う。


① タスクにまつわる違和感

「この仕事、本当に必要なのかな」

前例だから。
昔からやっているから。
誰かが決めたから。

理由は曖昧なのに、仕事だけは残り続ける。

二重入力。
意味の見えない確認作業。
目的を失ったルーティン。

組織は一度動き出すと、なかなか止まらない。
だからこそ、最初に違和感を覚える人は、
“空気が読めない人”ではなく、

構造の歪みに気づいてしまった人なのだと思う。


ブルシットジョブという言葉がある。
やらなくても誰も困らないのに、
なぜか存在し続けている仕事。

それに気づいてしまった瞬間から、
タスクをこなすこと自体が、少しずつ苦しくなる。

「もっとこうしたら改善できるのに」
「もう不要なのではないか」

そう思っても、
慣習だからという理由で手を入れない。
改善の余地があるのに、メスが入らない。

そして多くの場合、
その違和感は声に出されない。

声を上げれば、場を乱す人になるかもしれない。
問題提起した人が、なぜか全部を背負うことになるかもしれない。
あるいは、「お前が言うな」と言われる空気が生まれるかもしれない。

だから口をつぐむ。

その結果、何が起きるのだろう。

私はそれが、
いわゆる「静かな退職」に近い状態なのではないかと思っている。

仕事はしている。
でも心は少しずつ離れていく。

改善したい気持ちはあるのに、
何度も無力感を味わうことで、
やがて考えること自体をやめてしまう。

学習性無気力、という言葉がある。

声を上げて消耗することも、
口を閉ざして無意味だと感じながら手を動かし続けることも、
どちらもしんどい。

違和感に気づいてしまった人ほど、
この板挟みに立たされる。

だから私は思う。

タスクへの違和感は、
単なる不満ではない。

それは、

「この組織は本当に前に進んでいるのか?」

という問いが、個人の中に立ち上がった瞬間なのかもしれない


② 人の所作や態度にまつわる違和感

「今の言葉、少しだけ刺さったな」

会議中の空気。
ちょっとした言い回し。
善意のようでいて、どこかコントロールを感じる言葉。

組織の文化は、制度よりも先に、
人の振る舞いに表れる。

違和感は、誰かを責めるためのものではない。
ただ、

「ここではこういう価値観が普通なんだ」

というサインを静かに教えてくれる。

私は、言葉の温度に敏感な人ほど、
組織で疲れやすいのだろうと思う。
でもそれは弱さではなく、観察力だ。

一緒に働く人は、思っている以上に重要だ。

組織に身を置いて職務を行う以上、
完全に一人で完結する仕事はそれほど多くない。

誰かと関わりながら進める仕事の方が、
むしろ大半なのではないだろうか。

だからこそ、人の所作や態度に対する違和感は、
軽視できないサインだと思っている。


私は、不機嫌を撒き散らす人が苦手だ。

倫理を踏み外したような言動をする人も苦手だ。

もちろん、それを大きな声で言うことは少ない。
なるべく表には出さないようにしている。

でも、心の中では確実に違和感が積み重なっていく。

例えば、

ちくっとする言葉を相手に投げないと気が済まない人。
自分のことを棚に上げて、他人だけを責める人。

あるいは、

一緒に仕事をする相手を萎縮させてしまうような態度や、
力で場を支配しようとする振る舞い。

こうした言動は、
表面的には些細に見えるかもしれない。

でも実際には、
職場の空気を静かに変えていく。


本来、仕事を進める上で大切なはずの
ホウレンソウ(報告・連絡・相談)でさえ、
「言ったら嫌な顔をされるかもしれない」
という予感があるだけで、少しずつ減っていく。

気づけば、

言わない方が楽だ。
関わらない方が安全だ。

そんな空気が生まれてしまう。

そして、そのたびに
こちら側の気力や精神的なエネルギーが削られていく。

接するたびに小さな消耗を感じる相手がいると、
仕事そのものよりも、

「人と関わること」自体が疲れるようになってしまう。


人の態度に対する違和感は、
単なる好き嫌いではないのだと思う。

それは、

この場所で安心して関わり合えるのか
という問いが、身体感覚として現れているのではないだろうか。

そして、その違和感に気づけること自体が、
自分を守るための大事な感覚なのかもしれない。


③ 自分の評価にまつわる違和感

「私はそんなふうに見られていたのか」

組織の中で与えられる評価は、
必ずしも自分の全体像ではない。

ラベルは便利だ。
だからこそ、一度貼られると剥がれにくい。

でも、評価とは事実ではなく“解釈”だ。

違和感を覚えたとき、
それは単に傷ついたというだけではなく、

「自分の物語を他人に預けすぎていないか」

という問いでもあるのかもしれない。

自分の技術や能力に対して、
正当な評価が得られないと感じる瞬間は、やはりつらい。

どれだけ時間をかけて積み上げてきたものでも、
組織の中ではそれが十分に見えないことがある。

努力していないわけではない。
手を抜いているわけでもない。

それでも、評価が伴わない。

そのズレは、
少しずつ心の奥に残っていく。


さらに苦しいのは、

本来の職務とは直接関係のない部分――
例えば、性格や立ち振る舞い、過去の印象、
あるいは周囲の空気感のようなものが、

仕事の評価に影響しているのではないか、と感じてしまうときだ。

もしかすると私は、
仕事の中身ではなく、
“私という存在そのもの”で判断されているのではないか。

そんな感覚がよぎることがある。

それは、とても静かで、でも確実に心を削る違和感だ。


評価というものは、本来は客観的な指標のように見える。

けれど実際には、
そこには人の解釈や感情、
組織の文脈が少なからず混ざり込んでいる。

だからこそ、

「評価されない=価値がない」

とは限らないのに、
私たちはいつの間にか
その図式を自分の中に取り込んでしまう。


自分の能力を疑い始めるのもつらい。
でもそれ以上に、

「本当は違う理由で評価が揺らいでいるのではないか」

と感じる瞬間は、
言葉にしづらい孤独を生む。

声に出せば言い訳に聞こえるかもしれない。
黙っていれば、自分の中でだけ疑念が膨らんでいく。

どちらを選んでも、少し苦しい。


それでも私は思う。

評価に対する違和感は、
ただの承認欲求ではない。

それは、

自分の仕事と、組織の評価軸が本当に一致しているのか

という問いが、
内側から浮かび上がってきたサインなのではないだろうか。

評価というものは、
ただ能力が高ければ自然に届くもの、というわけでもない。

どれだけ技術や経験を積んでいても、
それを評価する“決裁権を持つ人”に届かなければ、
組織の中では存在しないのと同じになってしまうことがある。

だから時には、
自分の仕事をどう見せるかという「演出」も必要なのだと思う。

けれど、この演出という言葉に、
少しだけ戸惑いを感じる人も多いのではないだろうか。

奥ゆかしさや控えめであることを美徳としてきた日本の文化の中では、
自分の良さをどう伝えればいいのか分からない、
という人も少なくない。

アピールすることで、

「やる気のある人だな」と受け取られることもあれば、
「しゃしゃり出ている」とネガティブに捉えられることもある。

その境界線は曖昧で、
だからこそ難しい。


もし評価制度が明確に整っていれば、
できることをチェック項目として示し、
客観的に可視化することができるだろう。

けれど、日本の多くの職場では、
評価の基準が言語化されていないことも少なくない。

なんとなくの印象。
なんとなくの空気。
なんとなくの“あの人らしさ”。

そうした曖昧な要素が、
評価に影響してしまう場面もある。

だからこそ、
能力そのものだけではなく、

どう伝えるか、どう見せるか

という部分まで、
個人が背負わなければならない状況が生まれてしまう。

それは決して楽なことではない。

けれど、評価に違和感を覚えたとき、
自分を過小評価する前に、

「評価の仕組みそのものは、十分に機能しているだろうか」

と一度立ち止まって考えてみてもいいのかもしれない。


④ 安心感にまつわる違和感

「いい流れだね。
①〜③で積み上げてきた内容の“静かな着地点”として、
少し整えて 記事本文としてそのまま使える形 にまとめてみたよ👇


④ 安心感にまつわる違和感

「私はここにいていいのかな」

この感覚を日常的に抱かせる組織や環境は、
あまり健全とは言えないのではないか、と私は思っている。

もちろん、この違和感の背景には
いくつかの可能性がある。

ひとつは、本人の自己肯定感や自信の揺らぎ。
もともと自分を低く見積もりがちなタイプであれば、
どんな場所にいても
「自分はここにふさわしいのだろうか」
という不安を感じやすいかもしれない。

もしそれが理由なら、
自分の得意な分野や小さな成功体験を積み重ねながら、
少しずつ自信を回復していく時間が必要なのだと思う。


けれどもう一つは、
環境そのものが、そう感じさせてしまう場合だ。

例えば、

組織の成長という名目で競争を煽り、
常に順位や優劣を可視化し、
敗者を見せしめのように扱う文化。

緊張感や危機感がモチベーションになることもあるだろう。
そうした環境で急速に成長できる人も、確かにいる。

もし本人がそれを望むなら、
私は止める理由はないと思う。

ただ、個人的には
そういう場所に長く居続けることは、あまりおすすめしない。

常に誰かと比較され、
次は自分が敗者になるのではないかと感じながら働くことは、
思っている以上に心を消耗させる。

ハラハラして、
どこか気が休まらない。

安心できない場所では、
本来の力を発揮し続けることは難しい。


「私はここにいていいのかな」

この問いが頭から離れないとき、
それは単なる弱さではなく、

その環境が自分に合っているのかを見直すサイン

なのかもしれない。

安心感は甘えではない。
長く働き続けるために必要な土台なのだと思う。


違和感を潰すと、人は静かに壊れていく

私たちは、違和感を“問題”として扱いがちだ。

気にしないようにする。
空気に合わせる。
笑って流す。

でも、その繰り返しは、
少しずつ自己否定に変わっていく。

過剰適応。
感情の鈍化。
身体の不調。

組織の中で長く働いてきた人ほど、
このプロセスを知っているのではないだろうか。


違和感は、わがままではない

仕事をしていると、
「なんか変だな」と感じる瞬間がある。

それは大きな事件ではなく、
ほんの小さな引っかかりかもしれない。

タスクの意味。
人の態度。
評価のズレ。
安心できない空気。

私たちはいつの間にか、
そうした感覚を「気にしすぎ」として処理することに慣れてしまった。

でも、本当は違うのかもしれない。

違和感は、組織を壊すためのものではない。
誰かを責めるためのものでもない。

それは、

自分がこれからどう生きていくのかを考えるための、小さなサイン
なのだと思う。


組織の違和感 という一冊は、
私にその感覚を言葉にする視点をくれた。

もし今、あなたの中に
言葉にならない「なんか変」があるなら。

それを無理に消さなくてもいい。

違和感は、
壊れた証拠ではなく、
まだ感覚が生きている証拠だから。

そして、
その小さな感覚から始まる変化が、
それぞれの職場やコミュニティの中で、
静かに広がっていったらいいなと思っている。


ポッドキャストで日々のサバイバル記録「ヒビサバ!」配信中です!

ポッドキャスト 「ワープア女のサバイバル記録、ヒビサバ!」

ポッドキャストで20分程度の音声配信をしています。
SpotifyスポティファイAnchorアンカーGoogle Podcastグーグルポッドキャストにて配信中です。

Xでフォローしよう

おすすめの記事