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病歴は誰のものか ― 「話す自由」と「話さない自由」を守りたい
個人情報保護法改正案をめぐり、さまざまな議論が起きている。
私は法律の専門家ではない。
だからこそ、この法案については慎重に事実を確認しながら考えたいと思っている。
そのうえで、どうしても気になることがある。
それは「病歴」や「健康情報」の扱いだ。
医療研究やAI開発のためにデータ活用を進める必要性は理解できる。
私自身、鍼灸師として医療研究や技術の発展を否定するつもりはない。
しかし、それでもなお問いかけたい。
その情報は、いったい誰のものなのだろうか。
病歴は単なるデータではない
病歴は単なるデータではない。
その人の人生の記録であり、その人自身の一部だ。
過去にどんな病気をしたのか。
どんな治療を受けたのか。
精神科に通院したことがあるのか。
不妊治療を受けたことがあるのか。
そうした情報は極めて個人的なものであり、本来であれば本人がコントロールできるべきものだと思う。
病歴には、身体だけでなく、その人の生活や人間関係、生き方までも映し出されることがある。
だからこそ、医療情報は世界中で特別な保護の対象となってきた。
「研究目的だから大丈夫」と言われても
法案の説明では、研究開発や統計利用のために個人情報の活用を進める必要性が語られている。
もちろん、医学研究や公衆衛生の向上は重要だ。
しかし私は、「研究目的だから大丈夫」という説明だけでは安心できない。
制度は一度作られると、その後の運用によって範囲が広がることがある。
最初は研究目的。
次はマーケティング。
その次は与信判断。
さらに採用判断。
もちろん、今すぐそうなると言いたいわけではない。
だが過去を振り返れば、限定的な目的で始まった制度や技術が、少しずつ用途を広げてきた例は少なくない。
だからこそ私は、制度は善意だけを前提に作るべきではないと思う。
もし悪用されたらどうなるのか。
その可能性まで考えて設計されるべきではないだろうか。
病歴には「話す自由」だけでなく「話さない自由」もある
病歴は本人のものだ。
誰に話すか。
誰には話さないか。
その選択権は本人にある。
たとえば職場で必要な配慮を受けるために、自ら病歴や障害について説明する人もいる。
通院のための勤務調整。
体調への理解。
業務内容の配慮。
そうした環境が整うことで、安心して働ける場合もあるだろう。
しかし、それは本人が選んだ結果であるべきだ。
病歴を開示するかどうかは本人が決めることであり、最初から第三者に知られていてよい理由にはならない。
私たちには「話す自由」がある。
そして同じように、「話さない自由」もあるはずだ。
職務を遂行できるなら、病歴は関係ない場合もある
病歴と仕事の能力は同じではない。
過去に病気になったことがある人も、
精神的な不調を経験した人も、
治療を受けながら働いている人も、
社会のさまざまな場所で活躍している。
重要なのは、その人が職務を遂行できるかどうかであって、病歴そのものではないはずだ。
もちろん、病歴によって配慮が必要になることもある。
しかし、それは本人が必要だと判断したときに伝えればよい話であって、自動的に共有されるべき情報ではない。
もし病歴が採用や評価の判断材料として使われるならどうだろう。
「この人は休職するかもしれない」
「精神疾患の既往歴があるらしい」
「持病があるから採用はやめておこう」
そんな判断が行われる危険性はないだろうか。
そして恐ろしいのは、本人がその事実に気づけないことだ。
不採用の理由は説明されない。
契約を断られた理由も分からない。
婚活で相手から連絡が来なくなった理由も分からない。
しかし、もし病歴が本人の知らないところで判断材料にされていたとしたら――。
それは極めて深刻な問題だと思う。
病歴は、病歴だけでは終わらない
病歴が保護されるべき理由は、単に診断名が知られるからではない。
病歴から、その人の人生についてさまざまな推測が可能になってしまうからだ。
たとえば、ある人が性感染症の治療を受けていたとする。
その情報が本人の意思とは関係なく職場に伝わったらどうなるだろう。
性感染症は誰にでも起こりうる病気であり、その人の人格や仕事の能力とは何の関係もない。
しかし現実には、
「あの人は性生活がだらしないのではないか」
「夜の仕事をしているのではないか」
といった根拠のない憶測が生まれる可能性がある。
その人が事務職として真面目に働き、職務を十分に遂行していたとしてもだ。
病歴とは関係のない部分まで勝手に評価されてしまう危険がある。
また、HIV治療歴が本人の知らないところで共有された場合はどうだろう。
HIV感染者にはさまざまな背景を持つ人がいる。
しかし周囲の人間は、事実かどうかも分からないまま、
「同性愛者なのではないか」
「こういう生活をしている人なのではないか」
といった推測を始めるかもしれない。
問題は、その推測が当たっているかどうかではない。
本人が公表していない極めて私的な領域について、他人が勝手に詮索できる状態になってしまうことだ。
病歴が漏れるということは、単に診断名が漏れるという話ではない。
家族関係。
性生活。
妊娠や出産の経験。
性的指向。
障害の有無。
精神的な不調の経験。
人生のさまざまな側面について、本人の意思とは関係なく推測される材料になってしまう。
だから病歴は特別に守られるべきなのである。
鍼灸師として思うこと
私は鍼灸師として患者さんと向き合う仕事をしている。
施術の現場では、患者さんから非常に個人的な話を聞くことがある。
婦人科系の悩み。
精神的な不調。
不妊治療のこと。
家族にも話していない病気のこと。
患者さんがそうした話をしてくれるのは、「この情報は勝手に広がらない」という信頼があるからだ。
もしその信頼が失われたら、人は安心して医療機関を受診できなくなるかもしれない。
本来なら受けるべき治療をためらう人も出てくるだろう。
それは社会全体にとっても大きな損失ではないだろうか。
私たちが守りたいもの
私は政府を信じるなと言いたいわけではない。
企業を敵視したいわけでもない。
ただ思うのだ。
病歴は単なるデータではない。
その人の人生であり、尊厳であり、ときには誰にも知られたくない痛みの記録でもある。
そして病歴については、
「話す自由」だけでなく、
「話さない自由」も守られなければならない。
どんな病気を経験したのか。
誰に伝えるのか。
どこまで共有するのか。
それを決める権利は本人にある。
私は、この権利が軽く扱われる社会になってほしくない。
だからこそ、個人情報保護法改正案について、もっと多くの人が関心を持ち、議論してほしいと思う。
病歴は誰のものか。
その問いは、私たち一人ひとりの尊厳に関わる問題なのだから。
法案の内容や影響については今後の国会審議や専門家による検証を注視しながら、引き続き考えていきたいと思います。













