「お互いさま」の、その先へ。支える側の人生にも目を向けたい
『武田砂鉄のラジオマガジン』を聴いていたら、月曜ゲストのマライさんが、出産後に変わったご近所との関係について話していた。
子どもが生まれる前よりも、地域の人が笑いかけてくれるなど、フレンドリーに接してくれるようになったという。
夫婦二人で暮らしていたときよりも、子どもがいることで、地域の一員として見なされているように感じた。私はそんなお話として受け取った。
面白い観察だと思った。
子どもをきっかけに会話が生まれたり、近所との接点が増えたりすることはあるだろう。子育てする家族を地域で見守る温かさも感じる。
一方で、子どもがいることで、ようやく共同体の一員として認識されるのだとしたら、少し引っかかるものもある。
私はそこに、村落や農耕を中心とした共同体の名残のようなものを連想した。ただ、それだけで説明できるとは思わない。子どもが会話のきっかけになることと、「家族はこういう形であるもの」という価値観は、分けて考える必要がありそうだ。
夫婦二人でも、一人暮らしでも、子どもがいてもいなくても、その地域で暮らしている人であることは同じなのだから。
「子持ち様」という言葉の奥にあるもの
番組では、「子持ち様」という言葉も話題になっていた。
マライさんのお話では、ドイツにはそれに当たる言葉はないという。ドイツに同じような摩擦がまったくないとまでは言えないだろうけれど、日本でこうした呼び方が生まれていることについては考えさせられた。
私はこの言葉には、子育てをしている人が配慮を受ける一方で、その分の仕事を引き受ける人の負担が放置されていることへの不満も含まれているのではないかと思う。
育休、時短勤務、子どもの体調不良による早退。そのとき、職場に残った人が仕事をカバーする。
もちろん、子育てに必要な制度や配慮は大切だ。
でも、支える側の仕事が増えているのに、人数も報酬も変わらず、「お互いさまだから」で終わってしまうとしたら、納得できない人がいても不思議ではない。
自分は子どもを持たないかもしれない。育休を取得する機会はないかもしれない。
そういう人にとって、いつか同じ形で返ってくることを前提にした「お互いさま」は、実感しにくい言葉にもなる。
助け合うことの大切さと、誰かが負担を引き受け続けることは、同じではないと思う。
キャリーの「私の番はいつ?」という気持ち
この話を考えていて思い出したのが、大好きな『セックス・アンド・ザ・シティ』のエピソードだ。
シーズン6第9話「女の特権、シューズマジック」。原題は「A Woman’s Right to Shoes」。
キャリーは友人の出産祝いのパーティーに出席し、家に入るために脱いだお気に入りのマノロ・ブラニクの靴を失くしてしまう。
友人は弁償の話になると、その靴の値段に驚き、キャリーのお金の使い方まで批判する。
でもキャリーは、これまで友人の結婚や出産を、プレゼントを贈って祝ってきた。
友人の人生の選択にはお祝いをしてきたのに、自分の人生の選択や、自分のために買った大切なものは軽く扱われる。そこにある不公平が、このエピソードでは描かれている。
私はこの話を見ると、キャリーの気持ちをこう受け取る。
私はいつ、お祝いされる側になるのだろう。
結婚や出産をしなければ、私にはその番が来ないのだろうか。
誰かの幸せを祝いたくないわけではない。自分の人生にも、同じように目を向けてほしいのだ。
職場の業務負担と、友人同士のお祝いは、もちろん別の問題だ。
それでも、「支える側」「お祝いする側」にいる人が、ずっとその役割のまま見過ごされる感覚には、重なるところがあると思う。
支える人にも、具体的に報いる
滋賀県は、育児や病気で休む職員の業務をカバーする同僚に対して、勤勉手当、つまりボーナスを増額する「育休応援手当」を設けた。
休む本人への支援に加えて、職場に残って仕事を支える人にも金銭的に報いる。この考え方は、とても大切だと思う。
誰かが休んだときに、残った人の業務量が増えることはある。
その負担を調整する責任は、組織にあるはずだ。
しかし、人員補充も業務の見直しも不十分なままだと、現場には「自分ばかり負担している」という不満がたまってしまう。
すると、休む人は申し訳なさを感じ、支える人も疲弊する。
職場の体制の問題が、いつの間にか、同僚同士の感情の問題に置き換わってしまう。
「育休を取る人に理解を」と求めるのであれば、仕事を引き受ける人の負担にも、具体的に応えてほしい。
増えた仕事を評価し、報酬に反映する。休暇を取りやすくする。担当業務を減らす。
理解を求める言葉だけでは届かないところに、仕組みが必要なのだと思う。
手当があっても、働ける時間には限界がある
ただし、手当を出せば、いくらでも仕事を増やしてよいわけではない。
お金を受け取っても、一日の時間は増えないし、疲労がなくなるわけでもない。
業務量が限界を超えているなら、代替職員を配置することや、仕事そのものを減らすことが必要になる。
滋賀県職員の育休については、以前から「職場に迷惑がかかる」という不安や、代替職員の確保の必要性が指摘されていた。支える人への手当と、人員の確保は、どちらも必要な取り組みだと思う。
善意がある人ほど無理をしなければ回らない職場では、助け合いも長続きしない。
子どもがいない人にも、生活がある
子どもがいない人も、病気やけが、介護などで、誰かの支えを必要とすることがある。
ただ、「あなたもいつか助けてもらうかもしれないから」という説明だけで、今ある負担を片づけたくはない。
将来、同じように助けてもらう機会があるかどうかにかかわらず、今、引き受けている仕事には価値がある。
そして、子どもがいない人にも、仕事の外に大切な生活がある。
休みたい日も、会いたい人も、楽しみにしている予定もある。一人で過ごす時間だって、その人にとって大切な時間だ。
結婚や出産という、周囲から分かりやすい理由がなくても、その生活は尊重されていい。
キャリーの靴の話が好きなのは、そういう気持ちをすくい上げてくれるからなのだと思う。
誰かの幸せを祝うことと、自分の人生を大切に扱ってほしいと願うことは、両立する。
子育てを支えることと、支える側の負担に報いることも、両立できるはずだ。
「お互いさま」を、我慢を求める言葉で終わらせたくない。
誰かを支える人が、自分も大切にされていると感じられる。そのために、職場や地域で何を変えられるだろうか。















