家にいる。子どものそばにもいる。けれど、生活を支える責任は、いつも別の誰かが背負っている。
そんな状態を「いるのに、いない」と表現したメキシコの記事を読みました。
David Arturo Sánchez Garduñoさんによる、La Cadera de Eva掲載の「La presencialidad ausente de los hombres en los cuidados」です。
この記事で問われているのは、同じ場所にいることと、ケアの責任を引き受けることの違いです。
時々手伝っても、責任者は変わらない
家事や育児には、目に見える作業の前後にも仕事があります。
食材や日用品が足りなくなることに気づく。子どもの受診や学校の予定を把握する。必要なものを準備する。予定が変わったら調整する。うまくいかなければ、その後を引き受ける。
こうしたことを一人がずっと担い、もう一人は頼まれたときだけ動く。作業を分けているように見えても、生活全体を管理する責任は、片方に残ったままです。
「言ってくれればやる」という言葉も、言う側が必要に気づき、段取りを考え、指示することを前提にしています。
その人は、いつまでたっても気を抜けないのではないでしょうか。
「できない」の後を、誰が引き受けるのか
記事では、家事やケアの難しさ、自分の不慣れさを大げさに示すことで、仕事が女性に戻ってしまう状況も取り上げられています。
もちろん、初めてのことがうまくできないのは誰にでもあることです。問題は、その後に学ぶのか、それとも誰かに任せ続けるのか、ということだと思います。
やらなかった家事やケアは、消えてなくなるわけではありません。誰かが食事を用意し、子どもの体調を気にかけ、明日の準備をしなければ、暮らしは回らない。
一人が責任から離れられる背景に、離れられずに引き受け続ける人がいる。
この構造への指摘が、心に残りました。
ケアの負担には、公的統計でも男女差がある
この問題は、個別の家庭への不満だけではありません。
メキシコ国家統計地理情報院(INEGI)の2024年時間使用調査では、無償の家事・ケア・地域活動・ボランティアに費やす時間は、女性が平均で週39.7時間、男性が週18.2時間でした。差は週21.5時間です。
一方、有償労働などの市場向けの仕事に費やす時間は男性の方が長く、仕事全体の配分も見る必要があります。それでも、無償の家事やケアが女性に偏っていることは、公的な調査でも確認できます。www.inegi.org.mx
ただし、これはメキシコの統計です。日本の家庭に同じ数字を当てはめることはできませんし、男女差の数字だけで、個々の家庭の事情や男性の意図まで判断できるわけでもありません。
ケアをしないことが、相手を傷つけるとき
著者は、継続的にケアの責任を他者へ押しつけることを、日常的な暴力として論じています。
これは著者の社会的・倫理的な主張で、家事分担の不均衡がすべて法律上の暴力になるという意味ではありません。
それでも、責任を押しつけられた人が、睡眠や休息、自分のための時間を削り続けなければならないのだとしたら。その負担を「少し手伝わないだけ」で済ませてよいのか、という問いは大切だと思います。
生活を維持するための仕事は、誰かが困るまで放っておけるものばかりではありません。子どもや病気の人など、ケアを必要とする人の安全にも関わります。
自分も、暮らしを支える一人になる
この記事は、男性全員をひとくくりに責める内容ではありません。冒頭には、夫婦で責任を共有し、懸命に子育てする友人たちが登場します。男性である著者自身も、男性側の振る舞いを問い直しています。
私が考えさせられたのは、家事やケアを「誰かの担当する仕事」と思っている限り、手伝いを増やしても責任の偏りは残るのではないか、ということです。
必要なことに自分で気づく。分からなければ学ぶ。予定を把握して、継続して引き受ける。自分の都合が悪いときには、その調整も担う。
分担は、それぞれの仕事や健康状態に合わせて考える必要があります。同時に、どちらにも休める時間があるか、どちらか一人だけが常に気を張っていないかも、確かめたいところです。
同じ家にいることから、同じ暮らしに責任を持つことへ。
ケアする人も、ケアされ、安心して休める関係であってほしいと思います。
参考記事・資料
- David Arturo Sánchez Garduño「La presencialidad ausente de los hombres en los cuidados」2026年9月26日
- INEGI「2024年時間使用調査・公表資料」
※原文の要点を紹介し、考察を加えた記事です。全文翻訳ではありません。













